No.6:京口橋と擬宝珠(きょうぐちばしとぎぼし)
江戸時代の藤堂藩では、城内への通路は西大手門を通っていました。ところが宝永4年(1707年)10月南海トラフ沿いで起きた「宝永地震」での避難者を城内へ避難させる際、大変混雑したため、特に西之丸からの人を招きやすくするように、翌年宝永5年(1708年)6月現在の上野西大手町「わかや」さん前に外堀をまたぐ橋が架けられました。
京都へ向かう位置に当たることから「京口橋」と名付けられ、(地図上では「京口」・「京橋」ともある)城代家老藤堂采女が7月1日に渡初めを行なって、この日から諸人の通行が許されたそうです。
その後廃藩により明治6年(1873年)外堀が埋め立てられ、橋も取り壊されました。
現在上野城天守閣1階に展示されている青銅製の擬宝珠は、そのとき取り外されたもので伊賀市の文化財に指定されています。津の鋳物師 辻(つじ)越後(えちご)の守(かみ)が鋳造し(高さ61cm・直径30cm・重さ7.5kg)伊賀の儒学者高見岱撰(しょうよう)によって沿革や安政伊賀大地震等について1,100余字をもって刻銘されています。
出典・参考資料 :西大手町半世紀の歩み
伊賀上野城
協力 :伊賀市教育委員会
伊賀市上野図書館 公益法人伊賀文化産業協会 上野丸之内自治会
監修 :上野西部地区住民自治協議会 教育・文化・芸術部会