上野せいぶ(上野西部地区住民自治協議会が発信する伊賀上野城下町の歴史と伝統、暮らしの情報)

探訪シリーズ

No.12:京口橋と擬宝珠(きょうぐちばしとぎぼし)

擬宝珠(伊賀上野城蔵)

江戸時代の藤堂藩では、城内への通路は西大手門を通っていました。ところが宝永4年(1707年)10月南海トラフ沿いで起きた「宝永地震」での避難者を城内へ避難させる際、大変混雑したため、特に西之丸からの人を招きやすくするように、翌年宝永5年(1708年)6月現在の上野西大手町「わかや」さん前に外堀をまたぐ橋が架けられました。

京都へ向かう位置に当たることから「京口橋」と名付けられ、(地図上では「京口」・「京橋」ともある)城代家老藤堂采女が7月1日に渡初めを行なって、この日から諸人の通行が許されたそうです。

その後廃藩により明治6年(1873年)外堀が埋め立てられ、橋も取り壊されました。
現在上野城天守閣1階に展示されている青銅製の擬宝珠は、そのとき取り外されたもので伊賀市の文化財に指定されています。津の鋳物師 辻(つじ)越後(えちご)守(かみ)が鋳造し(高さ61cm・直径30cm・重さ7.5kg)伊賀の儒学者高見岱撰(しょうよう)によって沿革や安政伊賀大地震等について1,100余字をもって刻銘されています。
出典・参考資料 :西大手町半世紀の歩み
伊賀上野城
協力      :伊賀市教育委員会
伊賀市上野図書館 公益法人伊賀文化産業協会 上野丸之内自治会
監修      :上野西部地区住民自治協議会 教育・文化・芸術部会